最近色々な話を父親としているのですが、本当に本音で話していると人の気持ちの難しさというか、理屈では説明できない所が多いと感じます。
偽善というのは嫌う人が多いです。
しかしそれが偽善であるかどうかは分かりません。
本心から言っていても偽善と取られてしまう事も多いわけで、だからこそ『やらない善意よりもやる偽善』なんて言葉も出てくるわけですね。
ただそうは言っても、正直な気持ちというのは正直な気持ちなわけで、善意は善意なわけです。
それを偽善と決めつけられ、『そういう事を言っているのを聞くと腹が立つ』と言われても困ります。
『そういう事は言葉に出したら駄目だ』とも言われるわけですが、気持ちや考えは言葉に出さないと伝わらない事の方が多いわけで、本当の気持ちを偽善と決めつけられるのは寂しいですね。
それに、言って気持ちを分かってもらって、何か協力を得たい時もあるわけです。
そんな時は『それは周りも分かって自発的に行動する』とかわけの分からない事を言われますし、『それをしてくれない時は?』と聞くと『その時は言ってもいい』とか‥‥
今、その協力が欲しいから言ってるんですけれどね。{汗}
そしてその後結局、5分前に頼んだ事も忘れて協力は望めないようでした。{苦笑}
更に善意というのは必ず見返りがあるものだと考えている人もいるようです。
そういう人にとっては、見返りが期待できない善意は全て偽善になるわけですね。
私はその考えがどうとかというより、こういう考えになってしまった事が可哀想というか、残念に感じます。
これは偽善に感じられてしまうのですかね。{笑}
さて本題です。
今後認知症になるのではないかと思われる人の介護に努めている場合、一緒にテレビを見たりして色々と考えてもらおうとしたりします。
クイズ番組なんかを一緒に考えたりとかですね。
しかし毎日どの時間でもクイズ番組があるわけもなく、適当なチャンネルをつけて一緒に見る事もあるわけです。
そんな中、ぶっちゃけ今の状況とそっくりな場面を放送する番組があって、これは見せたくないというものが放送されていました。
チャンネルを替えるのも不自然で結局最後まで見る事になりましたが、本当に見せたくなかったです。
私は、テレビ放送にはルールがあるのでそれは守る必要があるとは思っています。
偏った放送は駄目だとかそういう所ですね。
しかしそれ以外は嫌なら見なければいいわけで、もっと自由でも良いと思っていました。
ただ実際に見たくない番組を見ざるを得ない状況もあると体験してしまうと、少しは考えた方がいいのかとも思えてしまいます。
最近はインターネット放送も見られるようになったとはいえ、テレビで見るチャンネルというのはほぼ決まっていて限られています。
だからどうしてもそのチャンネルのどれかを見る事になるわけで、この辺り何かしら対応が必要なのではないかと思うわけです。
例えば決められたチャンネルはジャンルを完全に分けて放送するとか、誰が見ても問題がないものに限定するとか、或いはテレビで見られるチャンネルをもっと広げるとか。
番組をチャンネル括りにするのもそろそろ変えても良いかもですね。
例えばクイズ番組チャンネルとか作って、それで各局のクイズ番組を連続して放送するとか。
各局同じ時間に放送して競争する傾向にありますから、それを1日遅れでもいいのでひとくくりにして並べられたらと思います。
それにしても、感動ストーリーとか、病気や障碍関係の番組は、これから先は放送手段を考えてもらいたいです。
話としては見ておくべき所もあるし感動もするのでとても良いものだと思います。
しかし実際にそういう立場にある人が見た場合、違ってきたりするのです。
先日、障碍者によるパラリンピックの放送を見たくない人がいるとかそういう話もしましたが、健康な人が見て良いものを、そうでないお年寄りや障碍者が見ている事の多いテレビで頻繁に放送している状況にやや疑問を感じました。
テレビに関して、何かしら改革が必要な時期に来ている気がしますね。
ε===(っ≧ω≦)っ